アラサー女子、新卒入社した会社を1年で辞めました
ナマステ!
桜も散って、すっかり春本番ですね。
うららかな日が差し込み、若葉たちが光り輝くこの春、私は会社を退職した。
高校を卒業して3年間フリーターをしたのちに大学へ行き、インドの大学院を卒業して、去年27歳にしてやっと社会人生活を始めた。
新卒入社したボーダレス・ジャパンは国内外で40ほどのソーシャルビジネスを行う会社で、私は「新卒起業家採用」という、社会起業家になるための枠で入社した。
10代の時に訪れたインドで目の当たりにした児童労働。
働く子どもたちの光を失った瞳。自分にできることを追い求めて現地の大学院まで行った。
子どもたちが働かなくていいように、親に安定した雇用を生み出す事業をインドで立ち上げようと思い入社した。
この1年は、新入社員5人で1つの事業を実際に起業し、経営するという「起業体験」の中でビジネスのノウハウを学ばせてもらった。
社会起業はやはり、すごく難しくて大変な道のりだった。
ただ売れるだけのサービスでは意味がなく、利益を上げることが社会問題の影響を受けている対象者の状況を良くすることに直結していなければいけない。
ビジネスモデルを考えて、コストを計算して、顧客層にヒアリングして、営業して、これではダメだと分かりまたモデルを考え直す。その工程を何度も何度も何度もやり直した。
先の見えない真っ暗なトンネルを手探りで歩いているみたいだった。
そんな風に5ヶ月間が過ぎ、私たちはようやく対象者の状況を良くしながら利益も出せるビジネスモデルを確立させ、事業を本格的に経営していくフェーズに入った。
それからの仕事量は一気に増え、睡眠時間を削って何とかその日のタスクを終わらせる日も多かった。
順調にお客さんが増え、1年を終える頃には事業をかなり軌道に乗せることができた。
共に事業を立ち上げた同期4人と
この一連の工程の中で、私は何度も「自分は本当に起業するのだろうか?」と考えた。
そしていつしか、インドで起業する自分を想像しても、ワクワクしない自分がいることに気づいた。
いつの間にか、「やりたい」という気持ちが「やらなきゃ」にすり替わっていた。
使命感というと聞こえはいいけど、それは義務感とも紙一重だった。
思えば、この義務感のような気持ちは会社に入ってから始まったものではなかった。
もういつからか思い出せないほど前からずっと、「インドの子どもたちのために何かできる自分にならなくてはいけない」
「1日でも早く結果を出さなくてはいけない」そんな"should"で知らず知らずのうちに自分を縛り付けていた。
"should"ではもう頑張れない自分がいることにも気づいた。
この1年、日本で生活していて、インドのニュースをほぼ全く見てこなかった。
意図的に見ないようにしていた。コロナの影響で貧困層の生活がより困窮して、働く子どもたちの数は増えているのは明らかだったから。
今すぐ自分にどうにもできない問題を、これ以上知りたくなかった。考えたくなかった。
家から一歩外に出れば子どもが裸足で物を売っているような環境から物理的に離れて、正直、気持ちが楽だった。
本当はインドなんてもうお腹いっぱい、と思う時もある。
大気汚染はひどいし、月に一度は下痢するし、道歩いてるだけでジロジロ見られるし、物事は全然スムーズに進まないし、辛くて油っこい物しかないし。
でもインドで出会った子どもたちのことは忘れられない。
学校に行きたいけど親が許さなくて行けない、スラムの聡明な子。
暑い日に道端で座り込んでいたティッシュ売りの子。
電車でアクセサリーを売る、大人のような冷めた瞳をした子。
そんなある日、近所のお寺でこの張り紙を見た。
これを読んだ時、胸がグワァーンと揺さぶられた。
「心惹かれること」この一言を見てすぐに思い浮かんだのはたった一つ、
インドの子どもたちの笑顔だった。
「起業」という形でなくても、どんな形でもいいからインドの子どもたちのために何かしたい、そう思った。
そして、会社を辞めてまっさらな所から、自分がどういう形で活動していきたいのか、改めて考え直すことにした。
今後の人生は、"should"ではなく"want"で動けるように。
起業しないことと会社を辞めることを伝えた時、社長はじめ会社の人たちは私の決断を祝福してくれた。
「社会にいいインパクトを与えるのは色んな方法があって、起業は一つの方法でしかない。自分に合ったやり方でやればいいよ」とみんな言った。
お金をかけて社会起業家として育ててもらったのに辞めることに対して申し訳なさや後ろめたさがあったものの、彼らの曇りなき応援の気持ちに接して、そんなこと誰も気にしていないんだとわかった。
そして社長は、「インドに行っても、また相談して。もしうちでやりたくなったらいつでも戻っておいで」と言ってくれた。
本当に懐の深い会社だと思う。
ホームレスの人々や、難民、技能実習生、途上国の農民など、
自分が支えたいと思う人々のために全力でひたむきに働く、同僚や先輩達に出会えたことはとても大きかった。
ここで働けてよかったなと心から思う。
感謝の思いの分、私も私なりの方法でがんばりたい。
コロナ前後で子どもたちを取り巻く状況も変わっているはずなので、インドの観光ビザが復活したらインドに戻って、いったん現地の様子を見に行こうと思う。
個人活動家として活動するのか、NPOを設立するのかなど、追い追い考えたい。
そして、日本の若者が自分に合った生き方を選べる手助けになるような本を書く。
新卒1年目で会社を辞めること、
今年29歳になるけどまたスタート地点に立つこと、
しばらく無収入になること、
不安がないといえば嘘になる。
でも今、自分にワクワクしている。
これ以上自分を責めるのはやめよう
はい、ナマステ〜
今年が明けたばかりと思っていたらあっという間にもう3月ですね。
去年から今年で、コロナの影響で心の病を抱える人が増えているそう。
かくいう私も、去年は一時的にうつ病の前兆のような状態になっていた。
具体的に言うと、これ!という明確な理由がないのに涙があふれて止まらない、常に気持ちが沈んでいる、夜寝付けない、人と会うのを避ける、など。
私がそうなったきっかけはおそらく、仕事や結婚など今後の人生の選択について一人で考えて悩む無限のループから抜け出せなかったことと、仕事において「自分は頑張れていない」「なんで頑張れないんだ」と自分を責めて責めて責め倒していたことだと思う。
私は子どもの頃から自分に求める努力の基準が高く、誰もプレッシャーをかけていないのに自分で自分にプレッシャーをかける性格だった。
塾には一度も通ったことがなかったけど、小学校の時から誰より家で勉強していた。親には「勉強ばっかしないで家の手伝いをしろ」と怒られ、母は担任の先生に「うちの子家で勉強ばっかりしてるので、先生から注意してください」と電話したこともあるほど。笑
中学に入って初めての期末テストでは「いい点をとらなきゃ」というストレスで髪が抜けたり、今思うと何であんなに頑張っていたのか分からない。
きっと、自分の中で「(田舎の学校で)誰より勉強ができて、部活もがんばって、みんなから尊敬されて、好かれて....」みたいな自分に対する理想像があって、その理想像と現在の自分のギャップを埋めるために必死で努力していた部分もあったと思う。
岡本太郎の『私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。』の言葉のごとく、人生で選択に迫られたら、より大変そうなほうを選ぶようにしてきた。
そして選んだ先の道で、がむしゃらに頑張れなくなった時に私は私を責めた。
去年うつっぽくなっていた時は、「何でがんばれないの?」「本当はもっとやれるじゃん」と自問自答する感情と、「もうなんにもがんばりたくない。全てに疲れた」という感情が混在していた。
そして私は、「何で?」と自分を責めることを一旦やめて、ひたすら自分の感情と向き合って、自分が今がんばれていない理由を紐解いていった。
いろんな理由が出てきた。
インドの大学院で気を張って休みなく勉強して、そのまま気をぬく暇もなく今の会社に入って、精神的・身体的に疲れていたこと、仕事では自分の進む道がわからなくなって、がんばる方向が見えていなかったことなど。
「がんばれていない理由」がわかって、自分が怠惰でどうしようもないやつだからがんばれなかった訳じゃないんだ、と気づいた時、すごく気持ちが楽になった。
そして色々な心のケアの本を読んだり、その道に詳しい人と話したりするうちに、
「自分で自分をみとめること」とか「自己肯定」の本当の大切さと意味が見えてきた。
今まで私は、ポジティブサイドな自分しか認められていなかった。努力家な自分、思いやりがある自分、倹約家な自分など...
ネガティブな感情を持った時、たとえば誰かに対する嫌悪感や嫉妬心を感じた時、私は自分を責めていた。「こんな感情を持ってしまう自分はひどいやつだ」と責めて、「ああ自分って何てダメダメなんだろう」と思っていた。
でもネガティブな感情を持つのにもちゃんと理由がある。たとえば自分の心の中で誰かに対して悪態をつくことは、相手に直接罵声を浴びせかけないために感情をコントロールするための手段だったりする。
それから私はネガティブな感情も認めるようになった。不安な気持ち、苦しい気持ち、怒りなど感じた時に言葉にして書いたり、起きた出来事と自分が感じたことについて話す動画を撮って見返したり。私のスマホには日本語と英語で自分語りをする非公開動画がたくさんあります。笑
そんなこんなを繰り返すうちに、プチうつのような状態はすっかり消えて、スッキリした自分に戻れた。戻れたというより、初めてこんなにスッキリした自分になれたかもしれない。
「がんばっているから」「あれもできる、これもできる自分だから」という理由で自分を肯定するんではなく、プラスもマイナスも含めてフラットなありのままの自分を好きになるコツのようなものを得た。
人生で一番長く付き合うのは家族でも恋人でもなく自分だから、自分が自分を責めてばかりいたらそりゃ生きづらいはずだ。笑
これからの人生の選択は、より困難で大変なほうじゃなくて、よりワクワクするほうにしようと思う。「ワクワク」って薄っぺらく聞こえるけど、要は原動力だと思う。「これをすべき」ではなく「これをしたい」と思った時に湧き上がるやる気。
困難で大変なほうがもっと成長できる道かもしれない。でもそれを選んだとて、自分の中の原動力がないと続かない。
これを読んでいるあなたも、自分を責めないであげてください。
がんばってるね、エライね、とセルフよしよししてあげてください。
できなかったら私がするので言ってください。
令和の見返り美人をイメージして撮りました
ガンジス川に人生を変えられたはなし
ナマステ!
最近サウナとジョギングでにはまってギンギンにととのっているわたしです。
今日は、私が「インド」を語るときに欠かせないガンジス川についてお話ししたい。
インドといえばガンジス川といっても過言じゃないくらい、私の中でガンジス川の存在はでかい。
私が初めてガンジスに出会ったのは10年前。
19歳の冬に1人でインドを旅したときだ。
当初はメジャーな都市だけ廻って帰るつもりだったので、「ついでに」寄ったバラナシという街。街の中心に流れるミルクティー色に濁った川が、ガンジス川だ。
第一印象は「こんな川見たことない」だった。
波紋も、流れも、無数に浮かぶボートも、川向こうに登る朝陽も、川沿いに並ぶ緻密なデザインの寺院も、濁った川で洗濯をする人々も、すべてが唯一無二のものだった。
ガンジス川の流れに沿う街並みが、この世のありとあらゆる景色の中で、いちばん美しいと思った。10年経った今もその気持ちは変わらない。
日本に帰ってからもバラナシという街が、ガンジス川のことが忘れられなかった。寝ても覚めても、夜中に起きたトイレの中でさえ、インドのことを考えていた。その2ヶ月後にまたインドに戻った私は、バラナシの国立大学のヒンディー語コースに出願した。
10ヶ月間の留学中、私は毎朝毎夕ガンジス川沿いを散歩した。
朝5時に起きてまだ薄暗い小道を、就寝中の牛とその糞をよけながら歩くと、夜明けの中に照らされる静かなガンジス川が迎えてくれる。
観光客を待ち構えるボートマンも、私には声をかけてこない。
朝陽が昇る前のガンジス川はとても静かで心地いい。
泳ぐおじさんたち、祈りを捧げる人、沐浴する人、チャイをすする人たち、さまざまな人が思い思いの時間を過ごしている。
いつもチャイを一杯飲んで、太陽にきらきら光るガンジス川を見ながら今日も世界が平和でありますように、と祈るのが日課だった。
一年中観光客が絶えないこの街で、無数の日本人旅行者と出会った。
こちらが日本人とわかるとすぐ話しかけられるし、在住者とわかると美味しいご飯やを紹介してくれとか、バラナシでの過ごし方を教えてくれといつも言われた。
「この街は、特に計画を立てず路地を散歩したり、行き当たりばったりでぼーっと過ごすのがいいですよ」というと旅行者たちは納得いかないという顔をした。
ウェイ系男子大学生にはいつも「やっぱ沐浴とかするんですか??www」とか「インド人男性からモテますか??www」と聞かれて、心底うんざりしていた。
カフェなどで日本人男子大学生を発見すると、気配を消してよく日本語がわからないふりをしていた。
「仕事をやめて、とりあえずインドに来てみた」という20代後半から30代前半の日本人もけっこういた。ハタチだった私はそんな人たちと一緒にガンジス川を見つめながら、「まあ人生長いので、あせらずいきましょう」なんて言っていた。
私も留学中、人間関係や恋愛、将来の進路などいろんなことで悩んで、ときには人生に絶望し、自分に絶望しながら、ゆく川の流れを見つめていた。
いつまでもいつまでも見ていた。
日本人はみんな人生に悩んだら、インドに来ればいいのにと思った。
全く違う価値観やにおい、風景の中に身をおいて、自分自身ともう一度出会えばいいと思う。
死にたくなったら、死ぬ前に一度インドに足を運んでほしい。
悩んでいたことがどうでもよくなるような場所だから。
来ては去って行く旅行者を見つめて、私は彼らがうらやましかった。
彼らには「帰る日常」があって、この街のことを、ガンジス川のことを忘れることができる。
私には忘れられない。一度出会ってしまったら、もう一生忘れられない。
留学を終えて日本の大学に入った後も、バイトしまくって年に2回インドに飛んだ。
その度にガンジス川は変わらない姿で迎えてくれた。
川沿いのチャイ屋の親父も、ボートマンも、土産物屋の店主も、私のことを覚えていて、
少し痩せた私を見ると「日本での暮らしは大変なのか?ちゃんと食べろ」と言ってくれた。
バラナシに着いてガンジス川沿いの風景を見るたび、「ああもうどこにも行かなくていいんだ」「もうどこにも行きたくない」という気持ちになった。
私にとってバラナシは最終目的地だった。
インドの他の街に行っても、すぐバラナシに帰りたくなった。
タイやベトナムに行っても、インドらしい混沌さやインド人の屈託無いフレンドリーさを探していた。それらはインド以外の場所にはどこにもなかった。
今はバラナシにしょっちゅう行かなくても生きていけるようになった。
目をつむればすぐに思い出せるくらい、一本一本の路地や、チャイの味や、偉大で荘厳な母なる川の景色が心の中に染み付いている。
あの場所がこの地球の中にあるということが私の支えになっている。
いつか子どもができて年を取ったとき、私の遺灰はガンジス川に流してねと言うつもりだ。
高卒フリーターだった私の3年間
みなさま、ナマステ&あけましておめでとうございます!
昨年は色々と激動の年だったと思いますが、今年はみなさま心おだやかに過ごせますようお祈りしています。
初日の出と見せかけて年末の夕日
さて、今年の初ブログですが私の空白の3年間を振り返ってみようと思う。
私は今28歳で社会人1年目。
高校卒業して3年間フリーターをしていたから。
私は和歌山の村で生まれ育ち、田舎の優等生として高校卒業まで過ごした。
生真面目な性格で、勉強はしっかりこなし、ボランティア部とESSを掛け持ちして、英語スピーチコンテストでは全国3位にもなった。JICAのエッセイコンテストでも入賞し、海外研修にも行った。
賞を取ったり、地元の新聞に載ることは私にとってそんなに大きいことではなかった。言ってみれば「日常」の一部だった。
大学は有名国公立の推薦を考えていたけど、どうしても当時学びたい学問が日本で見つからなかった。兄がアメリカの大学を卒業したこともあり、子どもの頃から海外の大学に行きたいと思っていた。
TOEFLを何度も受けカナダの大学に出願したが、奨学金の狭き門を通れずに何も進路が決まっていないまま高校を卒業することになってしまった。
人生の中で、初めての挫折と屈辱だった。
家でくさっていても仕方ないので、しばらくして私は地元の温泉のレストランでバイトを始めた。東京から来た料理人2人やおばさま方に可愛がられながら働いて、すごく楽しかった。
楽しかった一方で、大学生活を謳歌している高校の元同級生たちに置いていかれたような気持ちにもなった。
夏が来て、私は東京に出た。当時3ヶ月の海外出張に出ていた兄の部屋を借りて、東京でまたバイトをした。当時、矢口真里が常連さんだった商店街の生パスタ屋さんでランチタイムに働き、夜は品川プリンスホテルで「スポットさん(派遣)」と呼ばれながらウエイトレスとして働く日々だった。
高校の時は「世界のハラ」というキャッチコピーがついていた私が、名前を呼ばれることもない「スポットさん」としてウエイトレスをすることになるなんて思わなかった。
そう思うと同時に、世の中には名前を呼ばれることもなく働いている人々が無数にいるのだと知った。そういう人々に支えられてこの社会が成り立っているのだということも。
品川プリンスの派遣として一緒に働いていた人々は、舞台をやってる女優さんもいたし、美大生もいた。社員にはお局みたいな意地悪ばあさんもいたし、すぐキレる性格悪い男性もいた。
東京での生活の後も、鳥羽のさびれた温泉街で住み込みバイト、缶詰工場の派遣、コンタクトのビラ配り、デパ地下の売り子など、ありとあらゆるバイトをした。
その度いちから人間関係を構築して、学んだことは多かった。
成績や部活でちやほやされて育ってきた私だったけど、一歩外の世界に出れば私は何者でもなくて、ただお皿をどれだけ早く洗えるかとか、理不尽なことを言われても平謝りできるかどうかとか、そういうことの方がフリーターとして生き抜くにはずっと大事なことだった。
バイト先で出会った人々も、素敵な人たちがたくさんいた。毎日誰から褒められることも認められることもなく、朝から晩まで大変な仕事をこなしている人々。私は彼らに出会って、どんな職業の人も社会の役に立っていて、社会を支えているということを知った。
高校を卒業してストレートで海外の大学に行っていたら絶対に分からなかったことだった。肩書きを失ってありのままの自分と対峙した経験があるから、今も人を職業や経歴で判断することなく、その人自身を見ることができる。その人がどんな姿勢で仕事や人生と向き合っているか、周りにどういう態度で接しているのか、そういう根本的なところを見ていたい。
今でこそ大学院まで卒業した私だけど、自分のことを高学歴とかエリートと認識することは絶対にないし、学歴はただ環境に恵まれてそれなりの努力ができただけだと思っている。
このフリーターだった3年間のことは今でも思い出すし、自分という人間性をきずくためになくてはならない3年間だった。この先定職に就けないことがあったとしても、何をしても生きていけるという自信もできたし肩書きを失うことへの恐れもなくなった。
はらさくらという人間として、これからも自由に生きていきます。
実家の前の風景
山頂でヨガ
共感しすぎてしまうあなたがつぶれないために
どうも、ナマステ!
今日は共感性の高さについてお話しようと思う。
最近よく聞く、HSP(Highly Sensitive Person)。他人の言動に共感性が高かったり、人一倍感受性が強かったりする人のこと。
私は別に自分がHSPだ!と思ったことはないし、むしろ人間誰しもこの気質は大なり小なりあるんではないかなと思っている。
怒られている人を見たら自分のことのように心が苦しくなったり、苦しんでいる人がいたら何とかしてあげたいと思う気持ち。
でも人への共感やシンパシーが強いと、自分自身がだめになってしまうくらいダメージを受けることもある。
私は神戸の大学を卒業後、インドの大学院で2年間ソーシャルワークという学問を学んだ。
ソーシャルワークは、日本語に直すと社会福祉のようなもので、インドではNGOをはじめ福祉施設や医療施設、政府機関でソーシャルワーカーが草の根的に活躍している。
ソーシャルワーカーの仕事を簡単に言うと、困っている人に寄り添い、相談に乗って解決方法を提示したり、必要であればサポート機関に繋いで、問題解決までしっかり伴走すること。
私は子どもと家族に特化したソーシャルワークの学科だったので、重度の障害を持った子どもと母親のケアをしたり、スラムで学校に行きたいのに親に許してもらえない子どもを入学させる活動などをしていた。
クラスメートは、売春宿から救出された少女たちのカウンセリングなども行なっていた。
クライアント(相談に乗る対象者)に必要以上に感情移入してしまうと、自分自身のメンタルがつぶれる、ということは授業でもよく習った。
プライベートな自分と、プロフェッショナルな自分を使い分けましょう、とよく教授陣に言われた。
インターン先で、少女の強姦事件などにも関わっていたソーシャルワーカーは、「プライベートで全て忘れてほっとする時間も作らないと、ショックなことが多すぎて夜も眠れなくなる」と言っていた。
私は夜も眠れないようなケースに出会ったことはなかったけど、自分の恵まれた環境に罪悪感を感じるようになっていた。
スラムで、陽の当たらない狭くて非衛生的な部屋で暮らす子どもたちと接して、自分の部屋に帰ると、スラムの家族が5人で暮らす部屋よりも広くて、清潔な部屋が自分だけのためにあって、水道からは水もお湯も出て。
庭には何にも使われていないけど広いスペースがあって。
もし学業に挫折して日本に帰っても、バイトすれば最低限食べるのに困らずに生きていける。自分には逃げ場も帰る場所もある。それがつらかった。
休みの日に息抜きにちょっといいレストランへご飯を食べに行こうとすると、排気ガスにまみれた交差点でティッシュを売る小さな子どもに出会う。ボロボロの服で路上に暮らす家族を見かける。
自分は何をしているんだろう、彼らに果たして何ができるんだろう、という虚しさとやるせなさが押し寄せる。
大学院の卒業が近づいて来て、就活を始める頃には、「このままインドにいつづけたら、自分がだめになるかもしれない」と心のどこかで思っていた。心身ともに疲れていた。
今の会社にご縁をもらい1年間は日本に戻ることになり、半年が経過した今、インドと少し距離を置いたことで自分の人生について考えたり、やっぱりインドに戻りたいという気持ちを再確認できた。
今は日本で働く外国人技能実習生の支援事業をやっているんだけど、全力で相談に乗っても、結局今の自分たちではどうにもできないことのほうが多い。
それに今はソーシャルワークではなくソーシャルビジネスをしているので、どこかで利益を出してビジネスとして継続するものでないといけない。
すごく頭も神経も使う仕事なので、何も考えずにリフレッシュする時間がすごく大事だなと最近実感している。休みの日はゆっくりヨガをしたり、自然の中に行ったり、漫画読んだり、自分と全然違う仕事している友達と話したり。
前は「休んでいる自分」にすら罪悪感を感じていた。
けど今ははっきりと分かった。がんばるためには休まないといけないってことが。
ずっと動いて走り続けることが得意な人もいれば、休みながらゆっくり進むほうが最大のパワーを発揮できる人もいる。
それに、自分が動けない状態になってしまったら助けたい人も助けられない。
ゆっくり進むことが許されない社会の枠の中で、がんばりすぎてうつになったりや体を壊してしまう人が多いからこそ、自分に合ったペースで生きていける世の中になったらいいなと思う。
そんな世の中にしていきたい。
28歳、結婚願望が消えました
前回のさらけ出した赤裸々記事、想像以上の反響をいただいた。
人生の先輩から何人も、コメントやDMをいただき、結婚について、仕事について、人生について貴重なアドバイスをもらった。
悩める私を熊本県まで、瞑想ヨガに連れていってくれたマダムも現れた。笑
悩んで悩んで、悩みが突き抜けるところまでいったのか、最近は全く結婚については悩まなくなった。
大丈夫??と思うようなタイトルで心配してくれている方々もいらっしゃると思うので、これからそのいきさつを語っていこうと思う。
インドの児童労働問題にとりくむために社会起業する!と意気込んで期間限定で日本に戻って来た私。ムンバイで砂埃にまみれてスラムに通っていた私は、日本の正常な大気、綺麗な自然、健康でおいしい食事、快適な生活、安心できる友人に囲まれ、「これが幸せってやつなんじゃないのかな...?」と思い始めてしまった。
それ以上に、母性本能が人一倍強い私は、結婚して子どもを産みたいという気持ちがもう無視できないほどに高まっていた。
そんな時に、結婚を前提に付き合いたいと言ってくれる年下男性が現れた。
マッチングアプリで出会ったものの、彼はすごく真面目で堅実で、優しい人だった。
めちゃくちゃ安定した仕事についていて、これから何かあっても僕が支えるよ、とまで言ってくれた。
結婚願望が振り切っていた私には、目の前にニンジンをぶらさげられたウサギのような気持ちになった。
結婚して子どもを産んで、それから自分にできる形でインドの子どもたちと関わっていくのもありなのかなあ...という思いもよぎった。
でも彼と2ヶ月お付き合いしているうちに、彼そのものを見ていないことに気づいた。
彼がもたらそうとしてくれる「結婚」や「安定」を見ていた。
結婚相手として彼を無意識に誰かと比較検討している自分が心底嫌になった。こんな気持ちで一緒にはいられないと思った。
そして、自分は今すぐには結婚して子どもを産みたいわけではない、ということもはっきり分かった。いつか産みたいけど、手遅れになってしまうのでは?という不安や焦りが強かっただけ。
そうはっきり気づけたのは、先ほどふれた、ヨガに連れていってくれたマダムのおかげでもある。
私のお悩み記事を読んで、よかったらクンダリーニヨガしに熊本に行きませんか、とお誘いしてくれた。そこのインストラクターの女性に会わせたいとのこと。
もともとインドでヨガを習ったことはあったが、クンダリーニヨガはよりスピリチュアルで、自分のチャクラを開いて内なる声を聞くためのヨガ。
インストラクターの女性は、私に会うなり「なんだ〜。話聞いて心配してたけど、さくらちゃんは全然大丈夫よ。進みたい道わかってるけど、まだちょっと普通の女子みたいなことしてみたいだけだよね。」と言った。
全部見透かされている、と思った。笑
「今の彼氏はきっと、結婚について考えるうえで、学びや気づきを与えるためにちょうどいいタイミングで現れたんだと思うよ」と言われて、まさに同じことを行きの車の中でマダムと語り合っていたのでびっくりした。
そしてヨガをしてさらに思考がスッキリして、うどんを食べて熊本を去った。
それから間も無く彼とはお別れした。
すごくいい人で、真摯に私のことを思っていてくれたので、断腸の思いで心苦しかったが、お互いのためにこれがベストだと思った。
そしてもう一つ、私の結婚観・出産観を変える大きな出来事があった。
初めて姪っ子ができたのだ。
小さい時にはよく叩き合ってケンカしていた2個上の兄に子どもができた。
子どもが産まれた朝、私は早朝に起きて家で仕事をしていた。
送られてきた写真を見て涙が出た。
兄を長年支えてくれている奥さんの胸に、兄に似た赤ちゃんが抱かれていた。
めちゃくちゃ尊い、と思った。
この子のためなら何でも出来る、と思った。
なおさら、今の私には産む覚悟がないと感じた出来事だった。
結婚・出産までにやっておきたいことがあるし、不安とか焦りっていうネガティブな感情からじゃなくて、ポジティブに結婚しよう、と思える時を待とうと思う。
この報告を聞いた母は「あ〜あ、早く孫の顔が見たいよう」って言ってた。笑
農家で梨をむく私