さくらいふ

28歳女ひとり、インドと日本の狭間で

高卒フリーターだった私の3年間

みなさま、ナマステ&あけましておめでとうございます!

昨年は色々と激動の年だったと思いますが、今年はみなさま心おだやかに過ごせますようお祈りしています。

 

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初日の出と見せかけて年末の夕日

 

さて、今年の初ブログですが私の空白の3年間を振り返ってみようと思う。

私は今28歳で社会人1年目。
高校卒業して3年間フリーターをしていたから。

私は和歌山の村で生まれ育ち、田舎の優等生として高校卒業まで過ごした。

生真面目な性格で、勉強はしっかりこなし、ボランティア部とESSを掛け持ちして、英語スピーチコンテストでは全国3位にもなった。JICAのエッセイコンテストでも入賞し、海外研修にも行った。

賞を取ったり、地元の新聞に載ることは私にとってそんなに大きいことではなかった。言ってみれば「日常」の一部だった。


大学は有名国公立の推薦を考えていたけど、どうしても当時学びたい学問が日本で見つからなかった。兄がアメリカの大学を卒業したこともあり、子どもの頃から海外の大学に行きたいと思っていた。

TOEFLを何度も受けカナダの大学に出願したが、奨学金の狭き門を通れずに何も進路が決まっていないまま高校を卒業することになってしまった。

人生の中で、初めての挫折と屈辱だった。
家でくさっていても仕方ないので、しばらくして私は地元の温泉のレストランでバイトを始めた。東京から来た料理人2人やおばさま方に可愛がられながら働いて、すごく楽しかった。

楽しかった一方で、大学生活を謳歌している高校の元同級生たちに置いていかれたような気持ちにもなった。

夏が来て、私は東京に出た。当時3ヶ月の海外出張に出ていた兄の部屋を借りて、東京でまたバイトをした。当時、矢口真里が常連さんだった商店街の生パスタ屋さんでランチタイムに働き、夜は品川プリンスホテルで「スポットさん(派遣)」と呼ばれながらウエイトレスとして働く日々だった。

高校の時は「世界のハラ」というキャッチコピーがついていた私が、名前を呼ばれることもない「スポットさん」としてウエイトレスをすることになるなんて思わなかった。
そう思うと同時に、世の中には名前を呼ばれることもなく働いている人々が無数にいるのだと知った。そういう人々に支えられてこの社会が成り立っているのだということも。

品川プリンスの派遣として一緒に働いていた人々は、舞台をやってる女優さんもいたし、美大生もいた。社員にはお局みたいな意地悪ばあさんもいたし、すぐキレる性格悪い男性もいた。

東京での生活の後も、鳥羽のさびれた温泉街で住み込みバイト、缶詰工場の派遣、コンタクトのビラ配り、デパ地下の売り子など、ありとあらゆるバイトをした。

その度いちから人間関係を構築して、学んだことは多かった。

成績や部活でちやほやされて育ってきた私だったけど、一歩外の世界に出れば私は何者でもなくて、ただお皿をどれだけ早く洗えるかとか、理不尽なことを言われても平謝りできるかどうかとか、そういうことの方がフリーターとして生き抜くにはずっと大事なことだった。

バイト先で出会った人々も、素敵な人たちがたくさんいた。毎日誰から褒められることも認められることもなく、朝から晩まで大変な仕事をこなしている人々。私は彼らに出会って、どんな職業の人も社会の役に立っていて、社会を支えているということを知った。


高校を卒業してストレートで海外の大学に行っていたら絶対に分からなかったことだった。肩書きを失ってありのままの自分と対峙した経験があるから、今も人を職業や経歴で判断することなく、その人自身を見ることができる。その人がどんな姿勢で仕事や人生と向き合っているか、周りにどういう態度で接しているのか、そういう根本的なところを見ていたい。

今でこそ大学院まで卒業した私だけど、自分のことを高学歴とかエリートと認識することは絶対にないし、学歴はただ環境に恵まれてそれなりの努力ができただけだと思っている。

 

このフリーターだった3年間のことは今でも思い出すし、自分という人間性をきずくためになくてはならない3年間だった。この先定職に就けないことがあったとしても、何をしても生きていけるという自信もできたし肩書きを失うことへの恐れもなくなった。

はらさくらという人間として、これからも自由に生きていきます。

 

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実家の前の風景

 

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山頂でヨガ