28歳、人生になやむ
ナマステー
ご無沙汰してます。
ここ数ヶ月はブログはおろか、ツイッターもほとんど更新しない日々だった。
最近、今後の身の振り方について漠然となやんでいる。
28歳の誕生日を迎えてから特に考えているのが「起業」と「結婚」と「出産」についてである。
私はかねてから公言しているとおり、インドの児童労働問題にとりくむため、来年インドに戻って起業しようとしている。
今まで人生の岐路に立った時はいつでも、自分の根幹にある、ぶれることのない「インドの子どもたちのために何かしたい」という気持ちを軸に全てを選択してきた。
だからインドで鬼の大学院2年間も無事修了できたし、就活した時も特にめちゃくちゃ悩むことなく、一番確実に目的を実現できそうな起業という道を選択した。
起業に伴走してくれ、資金も出して後押しをしてくれる今の会社に入って起業への修行を始めて半年。利他精神と行動力にみちあふれて心から尊敬する先輩や同期とたくさん出会ってきた。
本当に素晴らしい会社と出会えたと思う。
そう思うと同時に、自分は本当に起業できるのか?
従業員の人生を背負えるのか?
不安だらけの自分がここにいていいのか?
そんな気持ちがどんどん大きくなってきた。
起業することとは別に、結婚と出産のタイミングについても考えたくなくても考えてしまう。
私は10代〜20代前半までは、「まあ自分の目的を達成するのが最優先で、そのためには結婚できなくてもいいや。インドで養子をひきとって暮らそう」と思っていた。
でも25歳あたりから「あたたかな家庭を持ちたい」「子どもを産みたい」という思いが自分の理性や意思とは裏腹に体の内側から湧いて出てくるようになった。
これは女性ホルモンの仕業だろうと思う。人類が種を存続していくためにいわゆる「適齢期」になるとそういう思いを持つようにプログラミングされているのかもしれない。
周りの同い年の友達は、「27歳を超えたら結婚を前提にじゃないと人と付き合うことは有り得ない」とまで言っている。私はどちらかというと未来のことは誰にもわからないのでcarpe diem的な精神で恋愛をしてきたし、今もそのスタンスは基本変わっていない。
でも、お互いの汗臭さまで知ってるような中学の同級生がいつの間にか結婚してるのをSNSで知ったり、頼りなかった後輩が子どもを産んで立派にお母さんしてるのを見たりすると、「自分はいつになったら結婚して家庭を持てるのか?」という問いがくりかえし頭をよぎる。そんな問いに蓋をして、見て見ぬふりをして、今まで生きてきた。
だってまた来年インドに戻って起業したら、結婚なんていつできるかわからないから。
ましてや子どもなんていつ産めるのか本当にわからん。
早10年、インドに通い続けている私は、「よっぽどインド好きなんだね」と思われることが多い。でもむしろインドと私の関係は腐れ縁とか、愛憎関係と表すほうがしっくりするくらいキラキラしたものでは全くない。
インドやアフリカなどの途上国で暮らした人は特にわかると思うが、日本は圧倒的に生活しやすい。生活においては最低限のお金があればノンストレスで生きていける。
インドのように便器からドブネズミがこんにちはしたり、シラミに頭をついばまれることもない。
デモが起きて外出できなくなったり、ビザの更新のために役所と喧嘩することもないし、一歩外に出れば外国人だからとじろじろ見られることもない。満員電車のドアがなくて外に振り落とされないように死に物狂いになることもない。
世界レベルでやばいPM2.5の健康被害を心配したり、原因不明の熱や下痢に悩まされることもない。人の家にお呼ばれして食べたカレーが辛すぎて食道が焼かれるような感覚を覚えることも、ない。
日本は寿司やケーキが食べたいと思えばいつでも食べられる。胃に優しい食事のオプションがある。あたたかいお風呂に入れる。少し足を伸ばせば綺麗な海や山や川がある。
日本にいると「当たり前」なこと全て、インドにいれば喉から手が出るほどほしいもので、でも全部忘れて生きていくこともできる。
インドにいて大変なことは、生活面よりもむしろ精神面かもしれない。
家の一歩外に出れば物乞いがいる。
スラムに行けば学校に行きたいけど行けない子どもたちがいる。
息抜きにちょっといいカフェにでも行こうと出かけると、信号待ちで物を売る子どもに会う。
「自分は何をしてるんだろう」という気持ちになる。
カースト、宗教、貧富の差、汚職や腐敗、女性蔑視など、複数の社会問題が密接に絡まり合って底が見えない。
「もういっそインドのことを記憶ごと消し去って、全て忘れて生きていければどんなに楽だろうか」何回も思った。
「普通の女の子に戻りたい」そんな昭和アイドルみたいなフレーズも頭によぎった。
でも絶対にインドを忘れられないし、半永久的に距離を置くこともできない。
好きとか嫌いとか、そんな言葉では到底表すことができない。「第二の故郷」ですらない。
しいて言うなら人生の一部だろうか。
だから私には「インドに帰らない」という選択肢はないのだ。
どんな形でもいいからインドの子どもたちのために何かしたい。そばにいたい。
インドに帰って子どもたちが働かなくていい社会をつくる。
結婚も出産もする。
あたたかい家庭をきずく。
引退後には喫茶店も営む。
これら全てを実現できる道を模索していくしかない。
それがどんな形を取るのかまだ今はわからないし決められていないけど。
28歳。なやみながらもがきながら今を生きる。
新卒起業家コースに入社して
ナマステ!
しばらくブログを書くこともできないくらい、嵐の日々だった。
お風呂も入れない日が何日もあった。笑
▽今日のブログのラインナップはこちら
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1. 感慨に浸る暇もなく帰国
2. 社長からクビ予告
3. 27歳新社会人1ヶ月で思うこと
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感慨に浸る暇もなく帰国
嵐のように、コロナ対策で鎖国化の進むインドを後にして、日本へ帰ってきました。
予約していたタイ航空の帰国便が、欠航に次ぐ欠航。返金もないままエア・インディアでチケット取り直し(大赤字)祈る気持ちで鎖国1日前になんとか帰ってきた。
一時帰国以来の1年ぶりの日本で、初めて食べたのは納豆と卵かけ定食@成田空港。生卵の美味しさったら、こんなにうまいものがこの世にあったか、と感動した。
社長からクビ予告
ソーシャルビジネスしかやらない「ボーダレス・ジャパン」に新卒起業家枠で入社し、1ヶ月が経った。
なぜボーダレス・ジャパンなのか?
それは、インドの児童労働をソーシャルビジネスで何とかしたいから。
ひとりでも多くの子どもが労働から抜け出し、学校に通って思いっきり友達と遊べるように、親に安定した雇用を生み出したい。
そんな大志を胸に抱いて起業家プログラムへ入社したけど、この1ヶ月、自分の未熟さがどんどんあらわになった。「起業」までにどれだけ成長しないといけないか突きつけられ、しかしへこんでいる暇もなく、毎日必死に生きている。
世界一意見を言いまくるインド人に囲まれ、大学院で2年間過ごしたにもかかわらず、私は人前ですばやく意見を言ったりするのが苦手だ。
起業家プログラムの最初の3ヶ月は、社長直下の自然エネルギー事業で修行させてもらうことになった。入社して3日出勤した後はリモートワークになった。
2週間経った頃、初めて新卒で企画案を出す会議があった。そこで、何の準備もしておらず、機転も効かずに意見を出せなかったわたし。「何も言えなかった...こんなんじゃ全然ダメだ...」と思っていると、社長からすぐにビデオ通話がかかってきた。
「さくら、全然ダメだよ。このままじゃ起業家コースから外れてもらわないと。とっさに意見出せないならしっかり準備してくるべきだし、意見言わないのはフィードバックもらえないから学びがゼロになる」
ほんとにその通りだし、自分が情けなくて恥ずかしくなった。でも、こうやってちゃんとダメなものはダメと言ってくれ、アドバイスをくれる社長に感動。ありがたさを胸にしみしみ感じながら、へこんでいる暇はないので次はしっかり準備しよう、自分の意見に自信持ってとにかく発言しよう!と胸に誓う。
自分の不得意なことで失敗するのがこわかった。でも、失敗したら失敗しただけ、学びがあるし次は絶対にやらないようにと気持ちを引き締められるので、失敗したらラッキーと思うことにした。
27歳新社会人1ヶ月で思うこと
テレアポ、zoom営業や、ウェブサイトローンチのためのhtml入力、SNS運用、オンラインイベント運営など、初めてのことばかり挑戦させてもらってきたこの1ヶ月。
まだ振り返る余裕もないくらい頭がいっぱいいっぱいだが、生半可な気持ちではとても起業なんてできないなあ、という事を毎日毎日考える。
正直、私は自分のためには頑張れない人間だ。自分の自己実現のためとか、自分の人生を充実させるためとか、そういう目的ではとても頑張れない。
インドの大学院で、膨大な量の課題と言語の壁と孤独の中、全部投げ出して逃げ出したいと週1で思っていたけど、その度に首の皮1枚で踏ん張れたのは、インドの子どもたちのため。大人のような冷めた目で働いている彼らのこと思うと、自分の感じている「つらさ」なんて全然ちっぽけだと思う。
彼らの存在が、今も私を支えている。今もつらいことは多いけど、インドの子どもたちの元に早く帰れるように、早く彼らに対して何かできる人間になる、という思いのみが私を動かしている。
私の起業家への道のりをまたここで報告していくので、見守ってください!
YOUは何しにインドへ
ナマステ〜
就活の合間ができたのでやっとブログ更新できる!
ヨガ
今日は、私がなぜインドの大学院に来たか?
何を学んだか?について書こうと思う。
私は大学に入る前に一度インド留学をしており、インドが第二の故郷になったのでいずれはインドに戻るつもりだった。
神戸の大学に入り、休みの度にインドへ飛び現地のNGOでインターンした。
高校の時から関心があったインドの児童労働の実情を現地で目の当たりにし、
自分は彼らのためにどういったアプローチで貢献できるか?と考えたら
自然とインドの大学院で、現地に入り込んでインド社会や経済、福祉について学ぶことがベストだと思った。
ひかれたレールの上を歩くように何の迷いもなくインドの大学院に行くことを決め、大学3年、4年の夏休みに2回大学院の下見も行き、現地で日本人学生や志望学科の教授と話したりした。
「インド政府奨学金」という、学費全額と生活費の一部を負担してくれる奨学金に応募したが、私の年度から行きたかった大学院がリストから外されてしまった。(政府の奨学金なので国立・州立の学校のみ支援対象になった)
私の今通っているTata Institute of Social Sciencesという大学院は社会科学分野ではインドでもトップレベルで、インド人が入るのはかなり狭き門だ。
特にソーシャルワークという実践的な社会福祉学においては定評があったので、ここにしか行く気がなかった。
大学4年の1月に奨学金が取れないことが発覚し、もうダメかと思ったが兄が支援してくれるとの鶴の一声で、私費留学に切り替えて入学試験とオンライン面接を受け、無事入学が決まった。
今、卒業まで残りほぼ3ヶ月で、卒業論文も終盤に差し掛かっている。
このブログではつらいつらいばっかり書いてたが、今振り返るとそんなに辛かった気もしない。出産と同じで、痛みを忘れるんだね。
国際協力分野を目指す学生は、日本では国際関係学部であったり、海外では開発学を学ぶ人が多いと思う。
私はもともと国連やJICAといった大きい組織より、自分のやりたい形で小規模でも住民と近い立場で仕事がしたいと思っていたので、欧米で開発学を学ぶより自分の解決したい問題のある国で、内側から学ぶ方がいいと思った。
結果として、これで良かったと思っている。
正直言うと授業で、「これが学びたかったのー!!」という科目は無かったけど、毎週2日間×2年間とラスト1ヶ月丸々のスラムなどでの実習で得た経験が大きかった。
これは関係無いけどバラナシの姉妹
1年目の実習ではヒンディーを話すのも自信なくて、実習パートナーも2人いたのでいつも劣等感があった。現地の言葉で意思疎通もできないのに、ソーシャルワーカーとして自分はこの国で何ができるんだろう?と自問自答していた。
2年目はスラム街で一人で活動した。NGOのスタッフもヒンディーしか話せず、子ども達とワークショップをする時などもちろんヒンディーだったので、かなり上達した。
子どもを学校に行かせてくれと親に直談判したり、子どもを病院に連れて行けと説得したり。
そして何より、「自分でも子ども達のために何かできた」という自信になった。
開発学が先進国側からのマクロな方法論だとすれば、私が学んだソーシャルワークは途上国側の、しかも社会的に底辺にいる人たちと共にマイクロレベルで社会を良くしようとする学問だ。
どちらがいいとかではなく、それぞれの関心や、したい仕事の内容次第。
ソーシャルワークを学んだことで、もし今後世界のどんなコミュニティで仕事することになっても、そこの子ども達と心を通わせられる自信があるし、彼らが何を必要としていて、何が障害になっているのか、分析できると思う。
インド留学(進学)をオススメするかと聞かれると簡単にイエスと言えない様々な理由はあるけど、もしこのブログを読んでインド留学やソーシャルワークという学問についてもっと聞きたいという人はウェルカムです。
人生のブランクについて
ナマステ〜
このブログでは、インドに来てからのことをメインに書いているので、たまには過去のことを振り返ってみようと思う。
私は村生まれ、村育ちのど田舎、というより秘境の人間だ。
実家のある和歌山の村は、人口400人ちょい。
奈良県と三重県の県境に位置するが和歌山に属する、日本で唯一の飛び地。
そんな私は真面目に学校へ通い、そこそこの成績をキープしつつ、青少年赤十字と英会話の部活を掛け持ちし、アクティブに過ごしながら高校3年を迎えた。
高校在籍中にパラオやカナダに行き、また学内外で積極的にパラオの海面上昇の問題などについて発表していたこともあり、いつのまにか同級生達から「世界のハラ」と呼ばれるようにもなっていた。笑
カナダの大学に進学したくて、奨学金など探すが競争率も高く断念。
そして何も進路が決まっていないまま高校を卒業した。
村の温泉のレストランで、アルバイトをしながら進路を模索する日々。
初めて、自分の肩書きがなくなった。
小学生から高校までずっと優等生として、周りに褒められて育ってきた。
そんな自分が、一気に「フリーター」になってしまった。
高校の元同級生達はみな、大学に入りサークルに恋愛にときめく日々。
そんな彼らと自分を比べ、本当にこれで良かったのだろうか、
推薦入試で筑波大学に入っておけば良かったんじゃないか、
もやもやした。
しかしその後私は神戸の大学に入るまで、実に3年間もフリーターを経験した。
途中で10ヶ月間のヒンディー語留学に行き、その前後はアルバイト。
村で飼い犬とたわむれる18の春
馬車馬のように働き、村の安い時給なのに20万を稼いだ月もあった。
東京で生パスタのお店と品川プリンスホテルでウエイトレスしたり、さびれた温泉街に住み込みで働きにも行った。
今でも、自分と同い年の人が仕事で成功していたり、起業していたりするのを見ると、自分はなぜ3年間もギャップイヤーを取ってしまったのだろうか?と思う時はある。
19歳、夏(表参道でカットモデルしたからちょっと髪型おしゃれになった)
しかし、もしストレートでカナダの大学に行っていたら、もし高卒で就職していたら、インドには一生来なかったかもしれない。
高卒で温泉でアルバイトしていた私には、自分が大学院まで行くことなんて想像もできなかった。
しかし今自分は確かに修士課程をあと数ヶ月で卒業しようとしていて、博士課程だって望めばいつか取れるとさえ思う。
それより何より、あの3年間、「何の肩書きも所属もない自分」に初めて対峙して、悩んで悩んで自分と葛藤して、誰にも流されず、自分で人生を選択していくことを覚えた日々は私の大事な根幹となっている。
そして、もしエリート的にスムーズに生きてきたらけして出会うことのなかった人々や見ることのなかった景色に数多く出会った。
人生にブランクはあっていいと思う。
スラムで医療キャンプ
ナマステ!
ブログのデザイン変えて、カテゴリー分けしたの気付いてくれてありがとうございます!
何ならブログ名も変えた。
さて、今回は私が活動しているスラムコミュニティで、子ども達向けに医療キャンプを開催したおはなし。
医療キャンプとは何?と思った方もいると思うが、医者を呼んで地域住民や学校の生徒など、集団で健康診断を受けてもらうイベントのことだ。
当日のようす
私がこのスラムで活動し始めたのは、雨季真っ最中の6月。
毎日毎日雨が降り続ける、体感湿度200パーセントのムンバイで、ただでさえ衛生環境が悪く、水道がないスラムの子供達は、ひどいあせもの子がとても多かった。
最底辺の貧困の中に暮らす家庭で、子どもたちはあせもくらいでは病院へ連れて行ってもらったり、薬を買ってもらえない。
そんな状況を見て、医療キャンプをしよう!と決めたのは7月頃。
しかし、色々準備などうまくいかずにやっと実現できたのが今。
無料で診察をしてくれる医師を探して、政府の病院やNGOのオフィスを何度も訪ねてヒンディー語で交渉をしたり。
同じスラムで活動している医療系のNGOが協力してくれることになり、子ども一人10ルピー(16円ほど)で診察と基本的な薬の処方をしてもらうことに。
子ども50人の診察を計画し、日本円にすると約800円。
あせも防止のベビーパウダーなども全員に配りたくて、その費用もプラスしてクラウドファンディングで募ろうと決めた。
しかし、目前に迫る日程の中で、クラファン運営側の基準を満たした掲載内容にすることができず、途中で断念。
クラウドファンディングを今後利用する際に、今回の学びを活かそう。
ベビーパウダーは諦め、800円は自分が出しました。安くて良かった....
場所の都合により、NGOの診察所に子ども達を連れていく形で行われる運びとなった。
私が活動する教育系NGOで学んでいる50人の子ども達を、親同伴で連れ出すのはなかなか大変だった。
スラム街の親は、「子どもの健康診断だから来てね」と言って簡単に来ない。
子どもが熱を出したり、皮膚病になっても「たいしたことない」とほっておく親も多いし、病院に行くのに交通費を惜しむくらいの経済レベルなのだ。
「無料で健康診断が受けられる。薬が必要であれば無料でもらえる。あと石鹸(NGOが配布している)も無料でもらえるよ」と前日から家々を周り、当日も家を訪問して連れ出す。
NGOのスタッフの協力のおかげで、3日間に渡って無事、50人の子ども達に健康診断を受けさせることができた。
もちろん何の問題もなかった子どもも多いが、皮膚の感染症、カゼ、捻挫、貧血、犬に噛まれた、など色々な症状が明らかになった。
犬に噛まれた子は、私が付き添って公立病院へ連れて行き狂犬病の事後ワクチンを打たせた。しかしあと3回病院へ行って打ってもらわなければいけない。
今日が2回目だったのに、親は連れて行っていなかった。
「まあ大丈夫でしょう」と言ってた。
こうゆうことが普通にある。
経済的貧しさはもちろんだけど、子どもの数が多くて、ひとりひとりの健康など気にしている余裕がない、もしくは見て見ぬふり、という状態。
私が今回一度だけ医療キャンプを行ったことで、子ども達が健康になるわけじゃない。
親の意識もそう変わらないだろう。
でも、健康診断を受けに来た子ども達はみんな少し誇らしげで嬉しそうだった。
きっと、普段ちょっとやそっとのことじゃ病院など連れてってもらないからだろう、と思うと、かなしかった。
かなしかったけど、嬉しかった。
子ども達には、自分たちが大切にされるべき存在であることを感じてほしい。
医療キャンプが終わった後、いつも一緒に活動してる寡黙なNGOのスタッフが、
「今日お前はすごくいい仕事をした。」と言ってくれて、泣きそうになった。
インドでTOEFLを受けました
ナマステ。(注:今回の記事はTOEFLに関する忘備録です)
インドでチャイの次に美味しいドリンク:スイカジュース
大学4年の夏以来、2年半ぶりにTOEFLを受けた。
結果から言うと、105点だった。(Reading28 Listening24 Speaking24 Writing29)
受けるのはたぶん7度目で、TOEFLには苦い思い出しかなかった。
高校の時、カナダの大学進学を目指して半年の間に5回も受けたのだ。
大学の入学に最低必要なのは120点中90点。
高校の最後の方は、学校を休みまくって勉強した(笑)
授業中も電子辞書で単語の勉強していた。
海外進学を目指している私を知ってか、先生も何も言わなかった(泣)
が、84点までしか取れなかった。
そして諦めた。そもそも奨学金無しでは行けなかったし、留学生向けの奨学金も超狭き門だから無理だったろうと今は思う。
そのおかげでインドに出会えたので、今はそれでよかったなあと思う。
神戸の大学4年の時、インドの大学院に提出する用でまた受けた。
対策も虚しく86点だった。
外国語大学の英米学科で4年勉強して、高3から2点しかUPしなかった自分が情けなくて、情けなくて。
そして今回、スコアの有効期間が切れたので、就活諸々のためにインドでまた受けた。
3週間、昔の記憶を辿りながら勉強した。
テキストなどは日本に置いて来たのでMagooshというオンライン教材一本で対策した。
1ヶ月で3200円だったので、4項目全てカバーできる点ではお手頃だと思う。
あと、怠け者の私にとって、オンライン教材は一度始めると試験形式でどんどん問題が出てくるので、自分でページをめくらないといけない書籍版と違って強制的に勉強できて良かった。
そして迎えた試験当日。
キッチンと玄関ホールの間の扉が、なぜか向こう側から鍵が閉められていて開かず、庭の塀から脱出して試験場へ。笑
インドといえど、試験会場は日本とほぼ変わらない設備だった。
自前の耳栓が許されないし、ポケットを裏返すなど厳しい持ち物チェックという点では日本よりも徹底していた。
待ち時間は、守護霊、守護神、神全般に力を貸してくれるよう祈って過ごした。
そして、ガンガンに効いたクーラー。たぶん18度くらいかな。
クーラーでかじかむ手を脇に挟んで温めながら頑張った。
リーディングは、1問に対して1分半ほどかけられるのだが、私はなるべく早めに解いて、自信の無い問題の番号をメモしておき、最後に見直ししている。
しかし時間が足りず全部は見直しできなかった。
自信のない中でも特に自信のない番号を⭐️マークと共にメモしておき、それから見直すのがオススメ。
リスニングは、設問ごとに答えを選択したら後戻りできない。
だいたいMagooshの教材より簡単に感じたが、何問か自信のないものもあった。
メモ用の紙は、わりとすぐ無くなるので、無くなる前に手を挙げて交換してもらう。
試験が終わるまで3回は交換しただろうか。
リスニングの後10分の休憩。急いでトイレへ行き、休憩室で水を飲み、また持ち物検査を受けて部屋へ戻る。
残り数分でスピーキングに使うテンプレートを最低限メモしておく。
(The reading passage is about ~. The professor illustrates this by ~. など)
そしてだいたいの日本人にとって最も苦手なスピーキング。
周りのインド人のでかい声に負けないように、はっきり大きめの声で話した。
私は普段から話すのが遅いので、スピーディーに話すことを意識したら、早すぎて回答時間が余ってしまうというハプニングもあった。
そんな時は、This is how the professor illustrates ~ やFor these reasons, the woman believes that~など、回答をまとめることで時間をつぶす。
回答前に、15秒〜20秒の準備時間があるのだが、私は長年の経験により、話し始めの一文を明確に決めることを最優先事項にした。
まず話す内容をメモの中からざっと目を通し、あとは最初の一文を頭のなかにイメージする。逆に言うとそれぐらいしかできない。
話し始めにつまずくと、そんな自分にショックを受けてしまい頭が真っ白になってしまうことが多々あるためだ。
そしてライティング。私の一番得意な項目。
正直言って、難しい単語や高度な文法は全くもって使う必要がない。
文字数、構成、スペルミス。この3つを気をつければ高得点は簡単。
今回、Integrated taskでは350文字、Independent taskでは550文字くらいだったと思う。会場のキーボードは、昔ながらの深く沈むタイプなので、macbookに慣れた私には打ちにくいのなんの。
スペルミスをしないように、かなりゆっくりめに慎重に打った。
結果、30点中29点だったので、スペルミスをしないのはかなり重要だと思う。
今日、スコアがオンラインで通知されたのだが、まさか100点を超えるとは思っていなかったので、これは何かの間違いでないだろうか?と手が震えた。
問題の運が良かったんじゃないかなと思う。
ありとあらゆる神に祈ったおかげだ...。
以上、マニアックでつまらなかったと思いますが、読んでくれてありがとうございます!
スラムにてワークショップ
当日に呼びかけたからあまり参加してくれないかなあ、と思ったけど呼びに行った子達全員参加してくれて嬉しかった。
生理について、親から話を聞いたことがある子は一人もおらず。
母親も恥ずかしがってか、生理の話題は避けているらしい。
学校に通ってる子は少し教わったみたい。
まだ生理来てない子たちはナプキンを見たことないと言っていたので、やっぱり生理の話題は相当タブー視されているんだなと実感。
あと、母親の世代は布を使っているみたい。布ナプキンじゃなくて、お古の洋服とかの切れ端。