さくらいふ

28歳女ひとり、インドと日本の狭間で

わたしがインドへ帰るまで

「迷い」と「決断」をテーマにブログコンテストに応募した時の記事です。

私の半生のダイジェスト版になっております。

 

 

 

 

令和元年、5月 15日、私は関西空港に降り立った。1年ぶりの日本に。

関空を出てすぐ、電車の車窓から見える海のやわらかいブルーと奥に見える山の青さに涙がにじんだ。なんて綺麗なんだろうこの国は。

 

私はインドの大学院で児童福祉学を専攻している。

手でカレーを食べ、カレー臭がほのかに残る手でペンを握りながらインド訛りの強い英語で授業を受け、帰宅後も夜2時まで勉強する毎日だ。気づいたら日本人に半年も会う機会が無くて、日本語がままならなかったりする。

 

初めてインドに行ったのは8年前、19歳の冬だった。アメリカの大学に進学したくて、高校を出てから地元の村でバイトをしていた。しかしバイトではなかなかお金も貯まらず、ふと「アジアなら学費も安そうだからいいんじゃない」と思った。インドなら英語も通じるし、と伝えると両親は「とりあえず下見に行ってこい」とすぐに私を送り出した。3週間の海外初一人旅だった。地球の歩き方には睡眠薬強盗とか詐欺とか、物騒な経験談ばかり載っていて、「もう生きて帰ってこれればいいや」と思いながらバックパックを背負い村を出た。

 

しかし初めてのインドは思ったより全然危険ではなくて、インド人は優しかった。でもあまりに過酷な気候と日本とは違いすぎる生活環境に、ここは勉強しにくる場所では無いな、と思った。留学は違う国にしよう、そう思い帰国した。

 

その後、寝ても覚めても私はインドのことを考えていた。もう一度あそこに行きたい、あそこに住んでみたい、ごちゃごちゃした路地を歩きたい。そして私は2ヶ月後なんと2度目の下見に行った。その数ヶ月後、ガンジス川のほとりの街、バラナシで私のヒンディー語留学が始まった。9ヶ月の語学コースの後は現地の大学に進学することを予定していた。

 

しかし留学が始まり間も無く、私はデング熱で倒れた。40度近い熱が連日続き、全身が痛くて、何も食べれず、歩くのもままならなかった。現地の病院に1週間入院して、医者に輸血が必要かもしれない、とまで言われた。私の契約していた保険会社からはインドでの輸血は安全性の観点から認められないのでシンガポールまで飛ばなくてはいけないと言われた。「シンガポールに飛ぶ体力あるわけないやん…」とベッドで思った。「死ぬかも」と生まれて初めて感じた。こんな場所では死ねない。まだ何もやっていないのに。最低でも60までは生きて、孫に囲まれて死ぬんだ…と神様に願った。結局輸血はせず快方に向かい、心配して駆けつけた母が着いたのは退院の日だった。

 

退院後私はデング熱の後遺症で精神的に不安定になったこともあり、母に日本へ連れ戻された。デング熱は厄介で、4つ型があり、2度目以降異なる型に感染すると致死率が高まる可能性がある。母には、インドに限らずデング熱にかかる危険のある国(東南アジア、アフリカなど)には今後一切行かないで欲しい、と言われた。やっとの思いで始まった留学、たった1ヶ月しか経っていなかった。どうしても諦められなかった。

 

そして誰にも言わずに家出して航空券を取り、再びインドへ戻った。着いてから家族に連絡した。家族はここまでするならもう様子を見よう、となり9ヶ月の語学コース終了までは見守ってくれた。現地でどっぷりインド人の中で生活し、ふれあい、喧嘩したりして、インドは私の第2の故郷になっていた。当初の予定通り留学を続けたい気持ちはあったが、父親の「とりあえず一回帰ってこい。」という言葉を聞き、荷物をまとめた。

 

帰国してからの半年間、私は抜け殻だった。

また村の温泉宿でバイトを始めて、ただバイトをしてご飯を食べて寝るだけの日々だった。夢も、目標もどこかに置いてきた。どんな形でもインドに帰りたかったけど、家族に反対されることは目に見えていたので、本心を隠しているうちに家族ともあまり話さなくなった。

 

そんなある日父は言った。「日本にいても地震とか交通事故で死ぬことはある。死ぬことを恐れるより自分の本当にしたいことをして生きろ。インドに戻りたいなら戻ればいいと俺は思ってる。」そう言ってもらっても、私ははい、じゃあ戻ります、と簡単には言えなかった。                  

 

それから少し経ったある日、母が私の部屋に来た。私は母に背を向けてパソコンを見つめていた。母は、「今まで心配でどうしてもインドに戻って欲しくないと思っていたけど、あなたが心から本当にやりたいことをして生きるのが一番だと気付いた。」

私はそれを聞いて、背を向けながら泣いていた。母と私の間のわだかまりがやっと解けた瞬間だった。

 

両親の理解と応援が得られて、私はやっと迷いを断ち切りインドに戻る計画を立てた。今度はしっかりとした自分で、胸を張って戻れるように。将来的にインドで働く為に夜間の大学に入り、昼間はデパ地下でアルバイトをした。

長期休みの度にインドへ行き、子どもを支援するNGOインターンをした。現地で働く子どもを沢山見た。車が行き交う道路上で裸足で物を売る子ども、住み込み家政婦として働いている5歳ほどの女の子、屋台で料理する子ども。彼らのために何かしたい、という思いでインドの大学院進学を決断した。

 

神戸の大学を卒業して数ヶ月後、社会福祉学ではインドで一番の大学院に入学した。授業は基本的に英語だが、ヒンディー語も混じるし生徒間の会話は全てヒンディー語。私の超基礎レベルのヒンディー語で大学院レベルの会話にはついていけない。英語もヒンディー語も中途半端で、言いたいことをちゃんと言えないもどかしさと、孤独感で家に帰った後泣いたこともあった。それでも自分が決めたことだからやるしかない。

 

朝9時から夜2時まで勉強。毎週スラム街に実習に行った。3ヶ月に渡る雨季には道路は冠水し、洗濯物は永遠に乾かない。原因不明の熱が出たり長期的に下痢になることは日常茶飯事だ。大気汚染はひどいし、大好きなうどんもシュークリームもない。

 

正直、もう全部投げ出して日本に帰りたい、と思うときは何度もあった。でもその度に、自分はいつでも全てやめて帰れる場所があるけど、インドで働く子どもたちは逃げ出せないんだ、あの小さな体で自分の置かれた状況と闘っているんだ、と思った。子どもたちのことを思うとまだまだ頑張れる。

 

今やっと、2年間の大学院生活の折り返し地点に立っている。今年で27歳。同い年は社会人4年目だったり、3児の母だったりするけど、私はまだ一度も社会に出ていない。結婚もいつになるやら分からない。

 

でも少しずつ自分の目標に近づいている。大学院を卒業したら、インドの子どもたちのために働きたい。